2011年9月18日礼拝
1.質素な生活
妻という人は夫のために生き、子供という人は父母のために生き、また父母は家庭のために生き、おじいさん、おばあさんも家庭のために生き、孫も家庭のために生き、このように、愛によって互いに「ため」に生きていくのが幸福ではないでしょうか。すべての食口たちが自分のものを作ろうと努力するのではなく、私たちのものを作ろうと努力するのです。
おじいさんも使わずに節約して私たちのものにしようとし、お母さん、お父さんも私たちのものにするために使わずに節約し、息子、娘もそうであり、全家族が私たちのものを拡大させるために努力する、その家は繁栄するでしょう。ですからお金を使わずに節約して全体のために生きるところから、このような愛の安息の場は拡大されるのです。そのような家庭を中心として、社会や世界に広まるようになる時、理想実現が可能なのであって、自分のもの、自分を中心としてはいけないのです。
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所有権は神様に返さなければならないのです。ですから先生は何も持っていません。それを知っているので質素な生活をするのです。一家族が、かばん一つ背負って、どこにでも行って生きることのできる時代がだんだん近づいています。「富んでいる者が神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」(マタイ一九・二四)という聖句は一理あるのです。
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私たち宣教師はヨーロッパ文明社会の豪華な要素を必要としないほどに訓練されています。私たちは新しい文化をもっているからです。それが「寝袋文化」です。私たち若者はどこに行っても不慣れな所はないはずです。統一教会の宣教師の家は豪華な家具のない、最も質素な家具だけがあるままで見つけられるでしょう。
すべての面で模範にならなければなりません。良く食べて幸せに暮らし、豊富な生活をすることが絶対に模範ではありません。これを節制をもってして、不可避なことに対して、必要に応じて適切な消耗をするのが模範的生活だということを知らなければなりません。
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先生は聖日には仕方なくこのように正装をしますが、服を着る時はできるだけネクタイをしないで過ごすのです。家にいる時はジャケットを着ずに、セーターのようなものを簡単に着ようとするのです。ヨーロッパ社会でネクタイの値段がどれほど高いか考えてみてください。ピンまで全部合わせるとこれはどんなに……。さあ、それができずに、ノータイ( ネクタイをしない)で一生を生きた人と、ネクタイをして世界を考えることができずに生きた人が霊界に行く時、どちらが神様の前に近づくことができるか、考えてみてください。
断食をしてみると時間がどんなに長いか分かるでしょう。三食の食事をするために、どんなに長い時間を要して食べていたかが分かるはずです。また精神的にも、りんご一つでももらって食べようと冷蔵庫を開けてみたり、コーラ一本でも飲もうと行ったり来たりする、そんな精神的な消耗がどんなに多いでしょうか。食事の時だけ食べる習慣が必要だというのです。そうすると病気にもかからないし、健康になるのです。神様のみ旨のために、この国の復帰のために一銭でも節約できる道を模索しなければなりません。