2011年12月18日礼拝のみ言
説教のみ言「記念儀式の意義」
公的な日を思慕する心をもたなければなりません。このような伝統を立ててこそ後孫たちの生活的伝統を立てることができるのです。公的な日は天が喜ぶ中で、すべてのことを互いに共に分け合って楽しく過ごさなければなりません。この日は家庭を基準として天的な法度を立てていく日です。
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人間が堕落して以降、歴史過程を通したこの人間世界に現れた記念日は、神様を喜ばせるのではなくてサタンが喜ぶ日として現れたという事実を知らなければなりません。国が独立した日を記念するとか世界的なある行事をする日はすべて堕落圏内で成されているというのです。
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原理的観点から見る時、人間が最も願う祝いの日、希望の日があるとすればその日は自分が生まれた日でもなく、自分が結婚した日でもありません。自分の国を失った国民の一人として国を取り戻した、または国家が独立した日でもないというのです。皆さん、それを知らなければなりません。人間において最も希望の日、願う日があるとすれば「神の日」、「父母の日」です。その日が地上に生まれる、それだけが私たち全体の願いになったという事実を知らなければなりません。「神の日」と、「真の父母の日」が始まるようになると、その次には「子女の日」も、「万物の日」も自然と連結されるのです。
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今日この地上に生きている人は誰も「神様の日」を祝った人はいないし、「真の父母の日」を祝った人もいないし、「真の子女の日」を祝った人もいないし、「真の万物の日」も祝った人がいないというのです。一年三百六十五日というならば三百六十五日が連結されるすべての日の中で最も重要な日とは何かというと、今語っている摂理史に現れるこのような日であるという事実を確実に知らなければなりません。その日はその中でも王の日のようなものです。そのような年があったなら年の中でも王の年だという事実を知らなければなりません。
2.儀式のための礼服は端正に
先生は最上の高い立場、天の補佐になるのですが、皆さんは皆ついて来られません。祝福という貴いものを受けたので門は開いていますが、行こうとしても行くための礼服を着られませんでした。祝いの家に行くのに田舎の農夫のズボンをはいていってもよいでしょうか。考えてみてください。そこに合う装いをしてその立場に行ってこそ、その環境に歓迎されるに足るのであって、そうでなければ追放されるのです。「こいつ、どけ!」と言われるのです。
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ここには誰でも来られるのではなく、また、ただ来ることもできません。必ず礼服を備えて来なければならないのです。
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祭物はその人の生命に代わり、その人の理念に代わります。祭物として捧げるものを買う時は値切らずに少しでももっとあげなさい。礼服の生地を買う時も同じです。