2011年11月20日礼拝
アベルが行く道
歴史始まって以来、神様のみ旨に従った数多くの宗教者は自分自らを否定する修行をしました。「犠牲になり、奉仕しなさい!」。しかし、なぜそうなのかを今まで知らなかったのです。それは本然の世界が「ため」に生きる本郷だからです。ですからその世界に行くためには、そこに行ける訓練と準備をしなければなりません。したがって高等宗教であるほど犠牲と奉仕を強要したのは、歴史時代に、神様が歴史過程を通じ摂理してこられたからです。それが歴史的な事実であることを、ここで公認することができます。神様がおられるということを公認することができるというのです。
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信仰生活をする上で皆さんの心の中に、爆発的で刺激的な力をもってみ旨の世界に向かって行こうという余力がありますか。そのような心があれば、神様が皆さんと共にいらっしゃるという証拠です。反面、そのような力がないならば、神様が皆さんと分離している証拠です。
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人類を愛する心がわきあがり、人類と共に自分の生命を分かちたい心が絶えないということは天に属していることを証すものですが、自体を中心とした愛と自体の価値を誇る生命力として終わるならば、自分から既に神様は離別しているという事実を知らなければなりません。そのような人の行く道の先は天ではありません。そのような人は自己を中心とした限界点に到達するでしょう。
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皆さんは神様とサタンの作戦法を知らないでいます。打たれて奪ってくる道はアベルが行く道です。サタンは先に打つので勝ったように見えますが、あとになると自分がもっている自分の善なるものまでプラスして返さなければならなくなるのです。悪の側だということは、相手を打って占領したとしても栄えるのではなく、悪なるものの中にある善なるものまで奪われるのです。言い換えれば、神様はもちをついて渡しておき、それを返してもらう時にはもちにきなこがついてくるのと同じような役事をされるのです。一時は悪が栄え、善を打つ立場に立ちますが、だからと言って天が滅びるのではありません。
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一瞬一瞬、必死の決意をする皆さんにならなければなりません。神様が今まで求めてこられたこの一時を無意味に失う人になってはいけません。これは千年の歴史とも替えられない価値をもったものなので、これを逃せば大変なことになります。この世をみな失って、探し出したものをすべて手放すとしても、これだけは絶対に手放さないと決意する皆さんにならなければなりません。私の生命がなくなってもこれだけは残して行くのだと、もう一度固く誓いながら、精誠の限りを尽くして前進しなければなりません。